気まぐれ日記 08年9月

08年8月はここ

9月4日(木)「あわや徹夜か・・・の風さん」
 出張でミッシェルを使う必要がある日以外、電車で通勤することにした。会社で長時間会議で座っていることが多いので、電車通勤をすると歩く距離が多くなる。ついでにガソリン代の節約になる(なぜ節約になるかと言うと、学業の関係で学生定期を持っているからだ)。一石二鳥である。
 それで今朝も電車で出社した。だらしない学生の姿を見るのはつらいが、ずっと英会話の録音をケータイで聴いているので、耐えられる(世の中には立派な若者がたくさんいるから気にしない)。
 午前中は九州大学の先生を交えた技術の議論に参加した。真実を追究すること、その過程で得られる新知識が楽しい。これだけやっていられたら気が楽なのだろうが。
 夕方になって、職場で問題が起きた。生産している製品の品質問題で、即、生産はストップである。
 マネージャーとしては、最悪の事態を想定してしまう。早急に最悪の事態かどうか見極める必要があった。2時間でやるべきことを部下へ指示して、ひとまず解散した。
 2時間後、データがいくつか集まったが、「最悪」という文字は消すことができない。さらに、追加調査することになり、私も現場へ飛んだ。現物を確認するのである。
 もし最悪の事態であれば、間違いなく善後策を講じるために、今夜は徹夜になる。あらゆるシナリオに対する答え(対策と日程計画)を検討しておき、明朝会社のトップへ報告しなければならないからだ。品質問題の影響度を徹底的に検証し、出荷した製品はすべて回収し、対策とともにバックアップ計画を立てなければならない。職場での事故や交通事故、自然災害のときと同じ、危機管理というわけだ。
 現地・現物の確認と追加調査の結果、最悪の事態でないことが判明したのは、午後8時頃だった。
 上司へ電話で結果報告し、ねぎらいの言葉をもらい、最寄りの駅へ向かう会社バスにも間に合った。
 電車通勤も決して楽ではないか。

9月5日(金)「怒涛の1週間が終了・・・の風さん」
 懲りずに、今日も電車で出社した。
 実は、今週の月曜が9月1日だったのだが、ずっと目の回る忙しさで、気まぐれ日記を書いている余裕はなかった。ついでに言うならば、学業もストップ、読書もままならない日の連続だった。
 今日こそは、と意気込んで出社したものの、席を暖めている余裕もなかった。
 結局、ノー残業デーの定時の日であるにもかかわらず、席のあるオフィスの空調と照明を消して帰る(つまり退社最後の人ね)ことになってしまった。
 電車を降りてから、自宅まで(坂道を)歩いて帰ったので、とても疲れた。
 明日は、八草で大野先生とゼミをやる約束になっているが、今週は何も進んでいない。今夜、これからやる元気もなかった。で、午後11時前に寝てしまった。

9月6日(土)「八草ゼミ・・・の風さん」
 早起きして、先週までやったことを思い出してから、ミッシェルで八草へ向かった。高速代を節約するために、今日は有料道路を使わないことにしていた。
 途中から日が照り出して、車室内の温度が急上昇した。
 約2時間弱かかって八草キャンパスに着いた。
 いつものように守衛のいるところで来意を告げると、「え? 学生さんですか?」と驚かれる。そりゃそうだろう。年恰好からすれば、父兄かどこかの大学の先生だ。しかし、驚いてくれるお陰で、普通の学生が使う駐車場でなく、学内へそのままミッシェルで入れてもらえる(相手が私の貫禄に気圧されるのだ)。
 研究室へ入ったら、中国人の研究生がいた。来年から大学院の修士課程へ入るのだと言う。実に日本語の上手な女性だ。大野先生が、なぜか私のことを「この人は東北大学出身だよ」と紹介したので、すかさず「魯迅の学んだ大学です」と言ったら、この若い女性は魯迅を知っていた。かなり教養のある人らしい。
 大野先生は、1週間後に中国へ行かれるので、その準備(40万秒もかかるシミュレーション計算を実行中)や、この研究生の指導をしながら、私のゼミにも付き合ってくれた。最後は、私は一人で考えることになり、女性から消しゴムを借りて、ああでもないこうでもない、と書いては消し、消してはまた書くことを繰り返しながら、問題の一般化に取り組んだ。
 とうとう八草にいる間に答えにはたどり着けなかった。
 帰りも一般道路で、渋滞していたので、たっぷり2時間以上かけて帰宅した。
 帰宅したら、ワイフから変な話を聞いた。長女が婦人科の検査を受ける必要があるのだが、付き合っている奴が、「女医さんに診てもらえ」と言っていて、病院を決めかねているらしい。今時、頭の古い奴だ、と呆れた。もっとも、そいつには会ったこともないが。

9月7日(日)「早くも来年のオクトーバーフェストへの期待・・・の風さん」
 昨夜、就寝前にログでトールをやっているワイフに、ホームテレフォンの内線機能を使って「一杯飲む?」と訊いたら、「飲まない」という返事だったので、「おやすみ」と言って先に寝た。
 実は、その直後にワイフがログからいそいそと母屋へやって来たそうだ。私の「おやすみ」が「おやつでも?」と聞こえたそうだ。午前零時過ぎにおやつはないだろう(^_^;)。
 名古屋でのトール展に立ち会って帰宅が遅くなったワイフが、寿司を買って帰ってきた。トール展も最終日だったので、ホッとしたところもあったのだろう。子供たちも既に帰宅していたので、「それじゃ、一杯飲むか」ということで、久々に缶ビールを開けた。ワイフのグラスにたっぷり注いでやった。
 私のグラスが空になったので、もう1本催促したら、「あら、まだ飲むの?」。ワイフの寿司はほとんど食べ尽くされている。それに比べて、私の方はまだ半分残っている。「私はもういいわ」そりゃそうだろう。そっちへたくさん注いでやったのだから。
 私はわかめスープを作ってもらうことにした。
 書斎でインターネットをチェックしていたら、来年10月のドイツでの学会の案内ページが立ち上がっていた。オクトーバーフェスト(ミュンヘンでのビール祭り)もあるので、絶対に行こうと決めている学会だが、読んでいて思わず苦笑してしまった。来年のオクトーバーフェストは9月17日から10月4日までで、学会は翌日の5日から7日までだった。遠来の客がホテルの予約などで困らないように、微妙にはずしたスケジュールになっていた(笑)。

9月8日(月)「お疲れさん・・・の風さん」
 朝から本社へ直行するので、車庫のミッシェルに近づくと、目の前に蜘蛛の巣と黄色と黒のまだらの蜘蛛が立ち塞がった。益虫の蜘蛛をいじめることはしないので、自分の進路を確保する分だけ、巣を払った。
 昨日、勉強に集中したので、今日は疲労が全身に張り付いていた。本社での会議では冴えた発言ができたが、製作所に戻ってからは、急激に元気がなくなった。これではいけない、と色々なことに手をつけてみた。雑用はいくらか片付いた。
 定時後になって、再び、困難な仕事に立ち向かったが、もはや体力はほとんど残っていなかった。
 帰宅し、夕食を摂ったら、猛烈に眠くなってきた。国際学会まであと2週間ちょっとである。やばい。

9月13日(土)「寝てばかり・・・の風さん」
 今週も先週に続いて、会社モードの日々だった。とにかく解決すべき問題が山積していて、マネージャーである私も自ら手を染めなければならなかった。毎週金曜日は職場の「定時の日」であるが、ここのところ毎週末、私が最後まで残っているような状態である。
 昨日は、午前中、職場の5Sにかかりっきりになり、昼食も早々、本社へ出張して会議を終えて、また製作所にとんぼ返り。日差しが強く、往復のミッシェル車内は、真夏かと思われる暑さだったが、しっかり英語のヒアリングもやった。そして、夕方から気になっていた仕事に、同僚と取り組んだ。あっという間に定時は過ぎた。
 帰宅し、夕食を摂ったが、意識が朦朧としていて何を食べているのかも分からなかった。
 しかし、今日は長女がワイフと一緒に病院の精密検査を受けに行った日なので、その結果を真剣に聞かねばならなかった。霧に霞む意識の下で、ワイフの話に耳を傾けると、きわめて理解が困難な病気であることが分かった。医師が書いてくれた病名のメモは、日本語の判読が難しく、英語名を頼りに後でネット検索することにした。
 そのまま書斎へ入ったが、英語のCDを流しながら、床にダウン……。
 今朝の5時過ぎにいったん起床して、長女の病名をネット検索した。日本語のページはきわめて少なく、結局、英語のページをいくつも開いて、何となく理解できた。どうやら深刻な病気ではないようだ。ワイフを安心させようと、自動翻訳付きのページを何枚もプリントした。
 再び、起きていられないほど、体がえらくなってきたので、また書斎の床にダウン。
 9時頃にまたまた起床(この床という字は寝床の床ではなく、本当の床だ)。 
 今日は、本社で中途採用面接があるので、ミッシェルで出張し、同僚と面接官を務めた。
 二人の応募があり、それぞれ1時間、人事部の担当と一緒にたくさんの質問をした。1時間も質問攻めにすると、その人物は多面的に浮かび上がり、かなり明確な像を結ぶことになる。見合いと同じで、目的が明確なので、そのことに特化した結論が厳粛に導き出される。
 帰りにミッシェルに給油して帰宅した。
 ひどく疲労感を覚えたので、今度はちゃんとベッドに横になった。
 4時間近く寝てしまった。
 昨日からもうこれで何時間寝たのだろうか。
 学会発表までもう2週間もない。

9月14日(日)「中秋の名月と時計・・・の風さん」
 昨夜はワイフとワインを1本飲んじまったので寝坊した。……ので、いくら何でも頑張らなければならない。そう。とうとう来週の国際学会の発表用スライドの作成を始めた。
 いちおう論文は出しているので、その内容を並べていけば終わる筈……だが、そうは問屋が卸さなかった。並べたスライドを眺めているうちに、激しい嫌悪感に襲われたのだ。やはり発表に値する内容にほど遠い気がし出した。
 金曜日にピッツバーグで学会発表したOmO教授からメールが届いたばかりである。原稿もなしに発表したそうで、圧倒される前にこっちが落ち込んでしまう。仕事を終えたOmO教授の爽快な気分を反映して、添付された写真は「美しい」のひと言である。
 とうとう英語の勉強をする余裕もないまま、夜になってしまった。
 腹立ちまぎれに、止まったままにしてあったピアノの上の時計の電池を交換した。
 ……と、動かない。復活しない。ムーブメントの下の電池ボックスの底を見ると、少し液漏れした兆候があった。テスターを持って来て、電池の電圧をチェックしたら「Good」である。やはり、壊れたようだ。
 この時計は、平成4年に第16回歴史文学賞を受賞したときの正賞である。16年で壊れたのなら、ある意味、寿命とも言えるかもしれない。まさか私の作家生命も寿命が尽きた……?
 傷付いた胸を抱きながら、サンルームから空を見上げると、中秋の名月が、今年も耿耿と私の前途を照らしているようだった(よしよし)。

9月15日(月)「目覚めろ、小説家!・・・の風さん」
 ここのところ作家業は中断、開店休業中である。
 帰宅したら、同じ県内に住む作家の山本悦子さんから新刊が届いていた。『ポケネコにゃんころりんAジュリエットさま、抱きしめて』(フォア文庫)である。シリーズ第1巻を購入して読んだので、今度は送ってくれたようだ。例によって、ワイフがひと晩で読んでしまうに違いない。
 それはともかく、作家業中断中の私のところへ新刊が届いたことは、それなりに刺激になる。
 とはいえ、今夜も学会発表の準備を頑張らねば。
 
9月16日(火)「小説家は2度目覚める・・・の風さん」
 今日は会社でうれしい来客があるので、朝からるんるんらんらん期待して待っていた。そのため、仕事もやけに力を入れて頑張ってしまった。
 来客対応はバッチリで、しっかり現場も案内して、無事に帰ってもらった。
 ここまで頑張り過ぎたので、続く会議がちょっと眠かった(笑)。
 それからやっと自分の雑務をこなし、夕方からまた会議になった。
 ところが、この会議でまたまた問題が発覚。頭に血が上った状態で、対策のために少ない脳みそを絞った。
 それが一段落したのは、午後8時近かった。やれやれ。
 今日も電車で出社したので、会社バスに飛び乗って、何とか家路についた。
 睡眠不足と疲労で眠かった。
 帰宅したら、またまた楠木誠一郎さんから新刊が届いていた。得意の歴史物で、『日本を創った偉人たち366日』(講談社)である。
 うるう年を含めた1年のカレンダーと366人の偉人たちのエピソードをまとめたのかと、その知識の豊富さと努力に脱帽の思いだったが、本を開いていたワイフが、「なーんだ、123人分の話しか入っていないよ。嘘つきじゃん」とツッコミ。商売を知らないというか、本当に頭の固い奴だ(^_^;)。
 とにかく、俺も作家(のはず)だ! また、目覚めさせてもらった。感謝。
 
9月17日(水)「思い立って京都へ出張・・・の風さん」
 製作所に出社したが、どうしても気になることが発生したため、急遽、京都へ出張することにした(どうも最近、会社の仕事を頑張り過ぎる風さんだな)。
 最寄りの駅まで同僚に送ってもらった。
 最近のべつ頭痛がするので、これではいけない、と痛み止めの薬を飲んだ。
 名古屋から仲間が乗る予定の新幹線に乗った。現地へ急行するメンバーは私を含めて7人にもなるが、ルートは様々だ。昼食は車中。頭痛が治ったので、その間に英語のプレゼンの勉強もした(忙しい人だ)。
 京都駅からはタクシーで某社へ向かった。今日の仕事は、その某社と問題対策会議である。現地へ着いたら、たまたま社長が在社していたので、挨拶かたがた問題対応の重要性を訴えた。
 会議は午後1時過ぎから始まった。議題が多くて(つまり問題アイテムが多くて)、いつ果てるともなく会議が続いた。途中で製作所から電話が入り、新たな問題が発生し、その対策にもかなりの精力を注入することになったが、とにかく来た甲斐があった(とこのときは思った)。終わったのは午後6時前だった。
 ……帰宅したのは午後9時前で、もちろんそれからやっと夕食だったが、当然のごとく疲労がどっと出てきた(私もただの人間だ)。
 明日も色々とあるので、早めに寝ることにした。

9月18日(木)「人生、一人では生きられない・・・の風さん」
 午前中を休みにして総合病院へ行った。3ヶ月ぶりに退治した悪の枢軸のその後の経過を診てもらった。まずまず順調で、検査結果も問題なかった。次回は半年後、つまり手術から1年後となる。
 昼から本社に出(途中ちょっと作家業をやり)、会議に二つ出てから、所属部門の2年に1回の展示会に来られるVIPのアテンドを夕方務めた。
 気を遣う仕事を終えた後、来客ロビーで、秋田県庁の人と会った。来月、名古屋でイベントをするので、その招待状を持って来てくれたのである。私は作家として応対した(笑)。秋田にある大学のパンフレットが手に入ったのは収穫だった。
 夜は床屋に行くことも考えていたが、疲れたのでそのまま帰ることにした。
 しかし、今日は今日で、製作所で問題が起きているのである(昨日の新たな問題が実はもっと深刻な事態に発展していた)。とりあえず電話連絡で同僚に任せてしまったが、明日は、私も頑張らねばならない。
 会社員が小説家を兼ねるのもなかなか至難の業だが、学業にも精を出すというのは、ほとんど気違い沙汰だということが、最近ようやく身に沁みて分かってきた。
 
9月19日(金)「台風接近もものかは・・・の風さん」
 台風が近付いていた。しかし私の頭の中は、寸秒の無駄なく行動をとっていくために、災害対策本部のように、次々に五体に行動指令を送り続けていた。来週の国際会議での発表のための原稿は、まだ全然できていないのだ。
 昨日に続けてミッシェルで出社。雨はまだぱらつく程度だ。作業服に着替えて
ラジオ体操をし、すぐさま昨日発覚した問題に対する、その後の確認と指示に走り回った……。途中、社内放送で何度も台風の接近が告げられたが、私の耳にはほとんど届かない。
 年末までの特別体制を指示した都合上、私は隣室へ移るために、昼休みも返上して、自席の引越しを敢行した。恐るべき速さで乱雑な机上を片付けたので、捨てるか残すか迷うことがほとんどなかった。
 午後一から会議。それを終えて、席に戻ると、製作所の防災隊幹部の召集がかかった。副団長の私は隊長に任せて、身の回りの最後の片付けを終えると、本社へ向かって出張した。気になる会議が開催されるのである。
 外は土砂降りになっていた……が、行かねばならない。
 台風が通過している週末定時の日なので、上司から早めの帰宅を促す指示があったが、仕事を優先する私は無視するつもりで、でもいちおう製作所に電話してみると、超多忙のくせに皆さっさと帰宅すると聞いて拍子抜けした。
 午後8時過ぎまでかかった会議を終えて、帰宅したのは午後9時過ぎだった。有料道路が閉鎖されていなくてよかった(既に雨足は弱っていた)。
 
9月20日(土)「また徹夜か・・・の風さん」
 ダウンした翌朝は秋晴れだった。否、台風一過の青空が広がっていた。
 昼近くまで寝ていた私は、そのまま昼食後(笑)万全の体制で発表原稿作りに着手した(スタートが遅かったのはやや誤算だが)。
 発表予定スライドは8割がた出来ているが、喋りの原稿は全く出来ていない。スライドの作成をしながら、スピーチの英文も作成していくのである。難しい作業でも、小説と同じで、緻密なモノづくりはすぐ夢中になる。
 最近学生モード100%で、ほとんど作家の自覚を失っている。そんなところへ、今日は重要な葉書が届いた。讀賣新聞に『和算小説のたのしみ』の書評を書いてくれた三浦しをんさんからだ。彼女の作品を2つ読んでからお礼状を出したので、それ自身がだいぶ遅れ、彼女からの返信に対する期待も当然薄れていた。
 葉書は檜の薄板を使ったもので、直筆でびっしり書き込んであった。驚くべきことに(いや、ありがたいことに)、彼女も拙作を2つ読んでくださり、面白かったと書いてあった。彼女の作風から、とても拙作に手を伸ばすとは思われなかった。
 夕食後も当然原稿作成に没頭した。
 今夜は徹夜になるかもしれない。

9月21日(日)「外は大雨、書斎は?・・・の風さん」
 今朝の午前4時15分ごろ、突然ケータイが変な音を出したのでビックリした。開いてみるとスケジューラーからのアラーム音だった。OUTLOOKのスケジューラーを転送しているので、元のデータをチェックすると、アラームのチェックボックスにしっかりマークが入っている。消し忘れだった。それなら、そもそも何のスケジューラーが入っていたかというと、千鶴伽さんが中京テレビの番組に登場する時刻を入れてあったのだ。北海道の鶴をテーマにした新曲を出したので、そのキャンペーンであちこちの番組に出演する。当地では中京テレビで見られるのだが、とんでもない時間帯だ……と言いながら、起きている私も異常ではある。
 このアラームをきっかけに限界を感じたので、そのまま書斎の床にダウンした。
 再び目覚めたら、もう午前10時近かった! ちょっと寝過ぎ(?)。
 今日こそ発表原稿を仕上げねば。
 朝食を摂って、書斎へ戻った。
 ときおり窓の外を眺めながら、原稿に取り組む。薄日も差していたのに、だんだん怪しい天気になってきた。雨が降り出し、雷まで鳴り出した。午後3時頃に、スコールのような雨になった。屋根はもちろん道路を叩く音まで聞こえてくる激しさだった。
 夕方、東大寺学園の小寺先生からケータイに電話が入った。12月に大阪で講演してほしいという。ありがたいお申し出なので、もちろん了解した。
 原稿は遅々として進まない。本当に難しいな。

9月22日(月)「阪神はもう浮上しないのか・・・の風さん」
 巨人が破竹の11連勝だそうだ……(絶句)。北京の惨敗からひと月もたたない間に世界が変わった。強い時の阪神ファンの風さんとしては、早くもシーズンオフに突入した気分である。我が人生も同様に幕引きにならないようにしなければ。
 昨夜はとうとう原稿完成までに至らなかった。作家としての講演や、企業人としての講演はいちおう経験を積んでいるが、学会発表の経験はきわめて少ない。まして英語での発表となると、今回が初めてである。初舞台としては楽な国内での発表だし、ほとんど日本人ばかりみたいなので、最悪の事態はないような気はする。しかし、ここが現代人と違うところだが、自分で自分に課した目標というかプライドが妥協を許さない。だからこそ、あらゆる場面でプロ意識が行動を律するのだが。
 まだ1週間が始まったばかりなのに、会社から早々に帰宅して、夕食を摂った後、書斎でダウン。午前零時過ぎに目が覚めて、こうして気まぐれ日記を書いている。はてさて、これから何時まで頑張るのやら(笑)。

9月23日(火)「仕事漬け・・・の風さん」
 今朝の5時半まで頑張った。いちおうスピーチの原稿バージョン1が出来たので、ちょっとだけ仮眠するつもりでベッドへ向かったら、ワイフが起き出してきた。早くも起床した次女がシャワーを浴びている。その次女の弁当を作るためである。入れ違いに私がベッドへ沈み込んだ。
 そのまま潜水艦は容易に浮上できなかった(笑)。
 (実は、管理者の私がうたた寝している間に、職場の人間が軽い物損事故を起こしていた)
 いくらか睡眠を補うことができたので、やはり会社へ行くことにした!(おい^^;)。ブランチのトースト1枚をほおばって、ミッシェルで本社へ出張。
 会議に出た合間を縫って、学会発表用の英文の疑問点などを同僚に相談した。わずかな時間も惜しんで学業に使わないと、自主的な研究は進展しない。
 製作所に戻ると、待っていたのは防災訓練である。3ヶ月連続の訓練の総仕上げになるので、気を抜くわけにはいかない。検閲者も多い。
 地震発生に続いて、火事と負傷者の発生を想定した、本番さながらの訓練だった。在籍118名という大きな組織なので、出張者や夜勤者がいても、残りの人数だけで堂々たる訓練になる。職場防災隊の機敏な動きと、大きな声を出した職制の導きで、見事な動きを見せてくれた。
 屋外避難してみると、眩しいほどの青空が広がっていて、清々しささえ感じた。
 訓練終了時に、出来栄えが良かったことを評価しつつ、一層の防災意識と職場安全、交通安全に努めてほしいと訓示した(私が)。
 その後、2つの難しい会議をこなして、退社したのは午後8時過ぎだった。
 いよいよ明日、淡路島で開催される国際学会に出席するため、出発である。そう思うと、腹の虫が「ぐー」と鳴いた。そうか、今日はトースト1枚で頑張っていたのだ。
 
9月24日(水)「ICMA2008の初日・・・の風さん」
 7月12日に英語の論文をメール添付で送信してから、風さんの英語の猛勉が始まった。
 頭と口と耳を慣らすために、いくつかのテキストを暗記するほど読んだし呟いた。ミッシェルの中ではCDで、電車の中ではケータイに録音した英語をイヤホンで聴いた。これほど集中的に英語の勉強をしたのは、もしかすると初めてかもしれない。それほど十数年のブランクを埋めるのは大変だった。
 名古屋へ出てのぞみに乗車し、新大阪でこだまに乗り換えた。JR西日本のこだまは初体験で、左右の座席がそれぞれ2つというグリーン車並で、ゆったりしている上、とても清潔感があって気分が良かった。西明石で降りる前に昼食のおにぎり3個を食べた。
 西明石から鈍行で舞子まで行った。そこから高速バスに乗り換えて、淡路島へ渡った。かつて徳島へ家族旅行で行ったときのコースだ。デジカメで記念写真を撮って、はやる気持ちを抑えた。
 宿泊するホテルはウェスティンホテルだった。どうりで宿泊料が高い(笑)。ICMA2008参加者はまだ誰も到着していないようだった。とりあえず、荷物だけ預け、国際会議場の下見に行って来た。別の学会が進行中だった。
 やがて会社の同僚も到着し、学会の受付を済ませてから、付属イベントである工場見学に出発した。目的地は大昭和精機株式会社。ツーリングのトップメーカーである。まるで工作機械展のように国産のあらゆるメーカーの機械が、それぞれ1台のロボットを携えて並んでいた。非常に競争力のある製品を製造販売しているメーカーらしく、モノづくりには無駄が多いが、それだけまだまだ余裕があるということだ。また、阪神淡路大震災を経験した会社にしては、地震対策が甘く、これは不思議なことだった。しかし、コレットチャックのようなツール類が製造品質や生産性を大きく左右することを知ることができ、とても楽しい見学会だった。
 夜、ウェルカムパーティがあった。今回の国際学会は、日本とフィンランドで2年おきに開催しているとのこと。つまり次回は2年後でフィンランドで開催となる。行きたいが、私の勉強は終了している可能性が大だ。パーティはまだ参加者が少なく、盛り上がりに欠けた。しかし、食べる物はたっぷりあり、しっかり夕食を摂ることができた。
 その後、会社の同僚と大野先生と3人でバーへ行き、スコッチを飲みながら、愛国論を戦わした。やや酔ってしまったので、発表の準備の続きができなかった。

9月25日(木)「本番前日・・・の風さん」
 部屋のカーテンを開けたら、どんよりした空模様だった。しかし、海上には漁船がたくさん出ていて操業中のようだった。こんな近くで何をしているのだろう。
 ホテルの朝食はバイキングだが、食べ過ぎてはいけない。研究発表の聴講中に居眠りするわけにはいかない。
 オープニングセレモニーに参加してから、早速研究発表の聴講に入った。3つの部屋に分かれて同時並行で進むのだが、すべて外人が発表する部屋へ入った。耳を慣らさねば……(経験経験経験)。
 外人とは言っても、フィンランドからの参加者で、とても聴きとりにくい英語だった。先行きが大いに不安になった。最後の発表がキャンセルされたので、大野先生が出席している部屋へ移動した。ちょうど院生と思われる日本人の女性が発表していた。いかにも学生といった英語で、質問が出たら答えられないだろう、と思っていたら、意外と度胸があって、何とか回答しようとしていた。でも、駄目だった(笑)。自分もそうなるのかと不安になった。
 昼食後、キーノートスピーチを2件聴講した。フィンランドの学者の話はよく分からなかった。英語ではなく、中身が。日本人のスピーチはマイクロマシニングの話で、面白かった。
 続いて、また研究発表を聴講した。自分の専門に近く、外人の発表が多いセッションを聴いた。
 夜はバンケットがあって、大勢の参加があったが、明朝が本番の私は、飲み食いをしている精神的な余裕がなく、夕食分を胃袋におさめて、早々に部屋に退避した。
 他人の発表をいくつか聴いたので、自分の発表スライドに手を加えた。スタイルを整えて分かりやすくしたのである。しかし、枚数が増えてしまった。
 練習は明日の早朝にやることにして、さっさと寝た。

9月26日(金)「初体験はほろ苦く・・・の風さん」
 6時に起きた。今日も窓の外はどんよりとしている。デジカメで記念に写真を撮っておいた(なんの記念になるのやら……(笑))。
 朝食は、昨日は洋食で統一したので、今朝はオール和風。しかし、よく見ると、メニュー全体は昨日とほとんど同じだ。連泊の限界は2日ということになるな。最後は納豆でかきこんでさっさと部屋へ。
 昨夜作り直したスピーチ原稿を読み上げて、時間を計ったら22分もかかってしまった。15分におさめるために、大胆に削除作業を開始。ほぼ半減させて、やっと15分に入ったところで、パソコンを携えて国際会議場へ。早々にチェアマンに挨拶して、自分のスピーチの暗記をしなければ……(今さら遅いって!)。
 会場となるルームCの外で、先生の指導を受けながら発表練習をしている学生がいた(これはもう雰囲気で分かった)。ルームCに入って係りの人にチェアマンを尋ねると、外で指導されている方がチェアマン(神戸大学の先生)だった。慌てて室外へ出て、近付いたが、熱心な指導が続いていて挨拶するタイミングが得られない。ようやく最後まで行ったところで、ご挨拶。自分にとって初めての国際会議であることを強調した。
 ……ということで、ほとんど暗記する余裕はなし。紙原稿を眺めながら喋ることに決め、さらに暗いところでは文字が読みにくくなるので(老眼のため)シニアグラスをかけたまま発表する覚悟も決めた。土壇場の決断は早い(自慢になるか)。
 とうとう本番がやってきた。およそ2ヶ月半の成果が今問われるのだ。教室程度の広さしかないルームCには、ほとんど日本人しかいないようだ。それでも、すべて英語で行われるのだ。
 相当に練習を積んできたつもりだったが、やはり本番は口も舌もなめらかには動かない。頭は当然真っ白に近い(髪の毛ではない、脳みそだ)。頼りの原稿はあるし、シニアグラスのお陰で文字は見えるが、読みたい部分がすぐに見つからない。読み間違えて「ソーリー」を連発する。それでも、時間オーバーはもっとみっともないので、分からなくなったところは飛ばして、何とかそれほど時間オーバーせずに終えることができた。
 会場からすぐに質問が出なかったので、チェアマンがなめらかな英語で質問してきた。よくあるパターンである。質問の意図も分かったし、回答もすぐ浮かんだが、英語にするのに手間取った。日本人が皆これで苦労しているのだ。時間稼ぎに、質問の意図を確認するというテクニックも当然知っているが、その確認のための英語も容易には浮かばないところが、英語の発表の難しいところだ。しどろもどろになっていたら、チェアマンがさらに平易な訊き方をしてきた。若い頃の私だったら、文法的に正しい文章が浮かばなければ、全く喋れなかったものだが、年輪を重ねて図々しくなったのか、あれこれと単語を連発していたら、チェアマンは理解してくれた。
 結局チェアマンとのやりとりだけで終わったので、質疑の時間はそれほどたっぷりは残っていなかったのだろう。
 精神的に疲れ果てて席に戻った。
 次の発表が、70歳は軽く過ぎているであろうご老人で、英語も発表内容もかなりレベルが低く、時間も相当にオーバーし、案の定、英語の質問にぴくりとも反応できなかった。その姿がさっきの自分の姿と重なっているような気がして、私はますます落ち込んでしまった。
 大野先生が、私の初めての英語での発表をねぎらって、豪華な昼食をおごってくれた。反省しきりの私に対しても、良いスタートが切れた、と励ましてくれた。本当に先生というのはありがたい。
 ありがたい先生といえば、私のときのチェアマンもそうで、セッションが終了した後、大野先生と再度挨拶をしていると、会社の同僚の名前が次々に出てきた。以前からデンソーの生産技術者と交流のあった先生だったのだ。
 「初めての国際学会が日本でよかったですね」
 これが、海外での発表だったら、もっと惨めなことになっていたのだろう。
 午後のセッションもしっかり聴講したので(というか疲れきっていて)、お土産を買う気持ちも起こらなかった。
 復路は往路の逆をたどった。
 新幹線の西明石駅で忘れ物に気付いた。ホテルの部屋のクロゼットに、着替えのために持っていったワイシャツを置いたままチェックアウトしてきたのだ。急いでホテルへ電話して、着払いで送ってもらうことにした。やれやれ。
 続いて、家へメールすると、ワイフから「指が化膿したので、整形外科へ行く」という恐ろしい返信が来た。私はてっきり足の指かと思って動揺した。明日から二人で、小樽へ旅行することになっているのだ。

9月27日(土)「整形外科から小樽へ・・・の風さん」
 不幸中の幸いで、ワイフのアクシデントは左手の指だった。それでも、昨日は、化膿した指に対して外科的な処置がされた。夏期連休中にシルバーに噛まれて私が経験したことを、今度はワイフが経験するのだ。
 午前中にワイフを消毒と点滴のための整形外科まで連れて行き、ミッシェルに給油した後、ようやく旅行の準備を開始した。旅行以外は何もしない計画なので、準備は意外と簡単に終わった。もっとも、ほとんど普段着での出発なので、一緒に行くワイフには不満があるだろう。
 セントレアへワイフのクルマで行き、午後3時過ぎの便で、新千歳空港へ向かった。
 愛知県は台風が近付いていて、天気はパッとしなかったが、北海道はよく晴れていた。
 快速エアポートで札幌で下車した。夕食はすすきのでジンギスカンを食べるのである。駅のコンコースを歩いているときに、「わかさいも」を売っている店を発見した。昔食べたことのあるお菓子で、実に手の込んだ作り方をしている。もちろん美味い。ワイフも食べたことがあるらしいが、名前を忘れていた。試食のために5個入りパックを購入した。北海道で最初の買い物が「わかさいも」になった。
 地下鉄南北線ですすきのへ向かった。ガイドブックにも載っている目的の店に行ったら、予約していなかったのがいけなかったのか、満席だと言って断られた。しかし、どう見ても内部はまだ客があまり入っていない。何となく不愉快になったが、とりあえず店外へ。近所の別のジンギスカンの店へ電話してみた。そこはうまい具合に空いていた。
 ところが、訪ねてみると、実にちっぽけな店だった。さっきのクラブのような店と雲泥の差で、まるで居酒屋、しかもぐるりと囲んだカウンター式で、席の数は10くらいしかない。
 しかし、おばちゃんたちの気配りは温かみがあり、地ビールを飲みながら、ラム肉と限定の鹿肉、野菜類をしこたま食べた。生の鹿肉をにんにく醤油で食べたが、これは美味かった。もやしも新鮮で美味かった。
 帰りは札幌駅まで歩いた。途中、テレビ塔や時計台を眺め、デジカメで写真も撮ったがあまりうまく撮れなかった(設定を変更するのを忘れた)。
 満腹だったが、札幌駅でむりやり札幌ラーメンを食べた。私の食べた味噌ラーメンはまずまずだったが、ワイフが注文した塩ラーメンのスープが変だった。
 午後10時にホテルノルドに着いた。昨年、学会で小樽へ来たときに、今度来るときは絶対にここだと思った洋風のホテルだ。
 まだまだ満腹感であえいでいたが、旅行に集中することに執念を燃やす私は、ホテルの最上階にあるラウンジ「北クラブ」へワイフを連れて行き、夜景を眺めながらスコッチのオンザロックを飲んだ。命を削るような超多忙の日々を送る私にとっては、きわめて久しぶりにゆったりした時間なのである。
 
9月28日(日)「念願の石原裕次郎記念館見学・・・の風さん」
 淡路島で目覚めたホテルの窓からは、毎朝どんよりした空しか見えなかった。
 小樽の朝は、抜けるような青空である。運河沿いにホテルがあり、おまけに観光客が往来する交差点の角に位置している。5階の窓から眺めていると、人力車をひいた兄ちゃんたちが集まっている。時代をさかのぼったような格好で柔軟体操をする者、箒とチリトリで道路脇を清掃する者、早起きの散歩客に道を聞かれて答える者など、微笑ましい光景が展開している。
 しかし、立ち木の梢あたりが揺れ動いており、風はやや強そうだ。
 ホテルの朝食はここもバイキングだったが、素材もメニューも趣が違う。ししゃもの煮付けやニシンの昆布巻きなど、北海道らしいものに目が引き寄せられた。今朝は和食で統一することにした。食べてみると実に美味い。素材が自然の豊かさをそのまま含んでいるのだろう。野菜など、昔食べた味が口の中でよみがってくる。これだけでも小樽へ来た目的の半分が達成できた気がする。
 昨年、学会で小樽へ来たときは、しっかり聴講もしたので、観光は帰りの飛行機までのわずかな時間しかなかった。絶対無理だったのが、石原裕次郎記念館だった。私の今回の小樽旅行で絶対行きたかったのが、そこである。人生のキャリアが長くなると、どうしても心の故郷を訪ねたくなる。古き良き時代への郷愁だ。
 小樽駅に着くと、ちょうど蒸気機関車が停車していた。札幌から来たのに違いない。昨年も運良くSLの発車風景を札幌駅で見ている。
 鈍行で小樽築港駅まで行き、海沿いの道を歩いて記念館へ向かった。
 入場して、いきなり目の前に現れたのが、映画「黒部の太陽」のセットの復元のような展示だった。この映画を観たのは、中学2年か3年の時である。なぜか同級生がたくさん隣の市にある映画館まで、国鉄をひと駅乗って観に行った。40年近い昔だが、迫力のある映像と破砕帯という言葉が強く印象に残った。熊井啓監督の著書で「黒部の太陽」製作の裏話を知ったが、石原裕次郎も三船敏郎も、単なるスターではなく、事業家であり男だったことを知った。熊井啓監督含めて、3人ともこの世にはないが、立派な仕事が残ったことのだ。残念ながらビデオもDVDも発売されていないので、当時の映像を見ることができなかったが、この展示の中で、破砕帯が破れて大量の土砂と水が押し寄せるシーンだけが放映されていた。石原裕次郎はこの撮影で本当に骨折までしてしまったのだ。
 一緒に行ったワイフもあらゆる展示に感動してくれて、あっという間に1時間半が経過した。お陰で、ワイフから記念のウィンドウブレーカーを買ってもらえた。私はすぐにそれを着込んだ。天気はいいが、風はやや冷たい。これで夕方からの観光は安心だ。
 その後、バスで小樽市内へ戻り、昼食後、運河沿いの散策路を歩き、倉庫を改造したショップを見物しながら、夕方、作戦通りにメルヘン交差点にたどり着いた。オルゴール堂を起点に、堺町通りをホテルのある方へ向かって、ショッピングしながらのんびり歩くのである。硝子細工の店が多く、品揃えも豊富で、圧倒されたワイフは声も出ない。じゃんじゃん買い物をするかと思ったが、どれにしていいか分からず、夢遊病者のように歩き回るだけだった。それでも、あまりにもゆっくり歩いたために、最後のスポット浪漫館にたどり着いたときは、閉店直後になっていた。
 いったんホテルへ荷物を置いて、今日最後のイベントとなる寿司を食べに寿司屋通りへ向かった。いちおうガイドブックをチェックして、第1候補から第3候補まで決めておいた。第2候補が満席で30分待ちになっていたので、やや不安になったが、第1候補の店は、やや奥まったところにあるせいか空いていた。そこで地酒を冷で飲みながら、岩のりくらげと鰊の切り込み、天ぷらの盛り合わせを食べた。そうしている間にだんだん客が入ってきたのだが、カウンターに座ったアベックのうち男の方が、あろうことかタバコを吸い出したので、私の鼻は敏感にもアレルギー反応を起こした。腹もくちくなり、だいぶ酔いも回ってきたが、寿司を食べねば小樽へ来た甲斐がない。ワイフの最大の目的が寿司を食べることだった。握りを二つとった。比較的小さな握りだったのでよかったが、それでも腹ははちきれるほどになってしまった。
 夜の小樽はかなり冷え込んでいたが、酔った身体にはちょうど良かった。アーケードの下でひとりギターを奏でる若者の声にしびれたワイフが、立ち止まって1曲リクエストした。ドリカムか何かの曲らしいが、テレビを観ない風さんには分からない。
 若者に別れを告げてホテルへの道をたどったが、狭い小樽の地理はもうすっかり頭に入っている。昨年、風邪気味の風さんが薬を買った薬屋がある。セルフのガソリンスタンドが158円/リッターと、北の果てで信じられない安さを提示しているのにも慣れた。
 俗世間から遠く離れた気分を満喫した小樽の二日目は、こうして更けていった。

9月29日(月)「一昨日の再現・・・の風さん」
 昨日とよく似た朝が明けた。ホテルの部屋の窓から眺める風景は、勤め人の往来が加わったのだけで、今日も人力車の車夫の若者の動きに違いはない。しかし、今日はもう家路につくのである。
 朝食は今朝は洋食にした。一番に口にした牛乳も、昔の味がする。
 ホテルのショップで、昨夜寿司屋で飲んだ地酒の詰め合わせを買った。
 チェックアウト後、ゆるい坂道をのぼって小樽駅に着いた。飲みそこねた小樽ビールを1本買った。4種類もあったが、飲みやすいピルスナーにした。快速エアポートでも新千歳空港まで1時間以上かかるので、車中で飲むつもりだ。ホームへ上がると、昨日は聞かれなかった石原裕次郎の歌が流れている。「やるなー」と感心しつつ、小樽を去らねばならない寂しさが募ってくる。観光地なのに観光地らしくない郷愁を感じるのが不思議だ。
 晴天の下、海は明るい緑色に輝いていた。住んでいる伊勢湾の海には見られない色彩だ。石狩湾である。その海岸線をひた走るのは爽快な気分だった。
 新千歳空港で、やっと「わかさいも」を試食して(一昨日札幌駅で買った「わかさいも」は食べるチャンスがなかったのだ)、満足のいける味だったので、大量にお土産に購入した。そして、最後に、というか、とどめの札幌ラーメンで昼食にした。昨年も食べた店である。初日に変な塩ラーメンで顔をしかめたワイフには味噌ラーメンを勧めて、やっと札幌ラーメンの美味さを納得させることができた。
 一昨日と全く逆のルートで自宅で戻ったが、それで終わりではなかった。
 ワイフの指の消毒のため、また整形外科へ連れて行ったのである。
 こうして一気に現実に引き戻された。

9月30日(火)「再び会社人間に戻った風さんの巻」
 北海道と違って、今日もこっちは天気が悪い。
 出社してひたすら業務に精を出した。しばらくメールチェックしていなかったが、昨夜、大量に自宅で処理をしたので、その点は楽だった。しかし、相変わらず、職場では問題が続発している。気になっている問題について、午後から会議をセットしてもらったが、約2時間、頭から湯気を出す勢いで激論を戦わすことになってしまった。
 会社でも一気に現実に引き戻されたのである。
 疲労困憊して帰宅した。
 
08年10月はここ

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